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rexus別館

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apotosis vol.6

apotosis vol.6



 薄暗い廊下に二人分の足音が木霊している。
 対照的な二人をよく現した二つの音。一つはかかとを叩きつけるような低い音で、もう一つは床に触れたつま先が奏でる高く澄んだ音。しかしいつもと違う事が一つだけある。それは二つの音がゆっくりと同じリズムを刻んでいるという事だ。
 部屋の支度が出来るまで城の中を歩いて回ろう、そう言い出したのは俺だった。しかしここに見て楽しい所などあるわけがなかった。ここにあるものと言えば、それは一様に変わり映えしない廊下とドアの連なりだけなのだから。よく知っていた筈なのに、どうしてそのような事を言ってしまったのだろう。一歩一歩足を進めるごとに「カイについて行けばよかった」と後悔の思いが沸き起こってくる。ただ植物が生い茂っているだけとはいえ、中庭の方がここに比べればいくらかマシだったに違いない。
「ねえ、何か聞こえなかった?」
 俺の背中を突っつきながら不意にイリアが囁いた。
「んん? そっか?」
 そう応えながら足を止める。お約束と言わんばかりにドスンとぶつかってくるイリアの身体。そして蛙を握りつぶしたような間抜けな声が後に続いた。
「うぅ……痛い……」
「って、何で俺の背中にくっついて歩いてんだよ?」
「だ……だって……」
「もしかして怖いんじゃないだろうな?」
「そ……そんな事ないもんっ!」
「まあ古い城だからな。いつどこから幽霊が出てきてもおかしくねぇよな」
「や……やめようよ?」
「もしかしたらあそこの角から……」
 そう言いながら、俺の手は反射的にイリアの口を押さえつけていた。
「シッ……やっぱり誰かいるみたいだ」
 当然応えはない。その代わりに、掌で押さえつけた唇は何かを訴えんばかりにモゴモゴと動いている。このままでいたら噛み付かれてしまいそうな勢いだ。
「手離すけど騒ぐんじゃねぇぞ?」
 一応念を押してからゆっくりと手を離した。
 真っ赤な顔をして俺を睨み付けるイリア。どうやら息が出来なかったというわけではないらしい。唇だけ別の生き物のように激しく動かしながら、せめてもの抵抗にか俺の身体をポカポカと叩いている。俺が言った通り声を出していないのは関心だが……なになに、し・お・ん・の・ば・か、だと? 普段ならたしなめてやる所だが、その様子があまりに滑稽で噴き出すのを堪えるのがやっとだった。
「シッ」
 今にも噛み付いてきそうな唇に人差し指をあてた。彼女は未だ不満そうではあったけれど、取りあえず抵抗する気は失せたらしい。しかめっ面をしながら頬をぷぅっと膨らませている。おまけで頭をくしゃくしゃに撫でて、それからやっとの事で奥の部屋に向かって歩き出した。音を立てないように細心の注意を払いながらだ。
 どうやらドアの向こうにいるのは男と女の二人であるらしかった。話の内容まではよく聞きとれない。しかし言い争っているのか、その語気はかなり荒かった。
 盗み聞きなんて最低だ。それは解っている。しかしその時の俺は何かに取り憑かれたかのようにそうせずにはいられなかったのだ。イリアは服の裾を引っ張って制止したけれど、気が付いたらそれを無視してドアに耳をあてていた。
「どうしても引くおつもりはないという事ですね?」
「そちらにもそのつもりは無いのでしょう?」
「ええ」
「では交渉決裂ですね」
「そうですね」
「私は忠告しましたよ」
「忠告? 面白い事を仰るのですね」
「そうは聞こえませんでしたかな? まあいいでしょう。どの道これ以上あなたとお話しする事はありません」
 ドア越しに足音が近づいてくるのが解った。どこか隠れる所はあったか? そう思いながら辺りを見回してみる。しかしそれらしい所はどこにもない。どうやら偶然を装うのが得策らしい。
 そう決め込んだ直後に勢いよくドアが開いた。続いて現れたのは初老の男だ。いかにも怒った風に肩を揺さぶっている。この顔……どこかで見た覚えがあるな。そうだ、俺はこの男を知っている。名前は何だったか? ルーファス……そう、ルーファスだ。いつも嫌みな笑みを浮かべながら俺を見つめていた。そうだ、俺はこの男の事をよく覚えている。
 俺の顔をチラッと見つめた彼はさも不機嫌そうに喉を鳴らしてみせた。それから何事もなかったかのように俺達が来た方向へと立ち去っていく。そしてその後を追うようにもう一人が姿を現した。
「お兄様……」
 驚きを隠せない様子で立ち止まるミト。しかしバツが悪そうに「すみません」と吐き捨てると、すぐに俺達の横をすり抜けて走り去ってしまった。時間にしてみればほんの僅かな間だ。しかし充血した彼女の瞳に浮かんだ涙を決して見過ごしはしなかった。その涙は俺の心を酷くかき回して、良心の奥底に眠っていた「俺」自身はある傷みを伴いながら目を覚ましたのだ。長い間忘れていたその傷みは、もしかして俺が俺である事の証だったのかもしれない。たとえどれだけそれを否定し、そこから逃れようとしようとも。
「……悪い、先に戻ってる」
 応えを待たずに振り返る。奥歯をガリッと噛みしめて、それから勢いよく走り出した。
 一刻も早くここから立ち去りたかった。彼女の目の届かない所へと行きたかった。この身を蝕む不安を悟られたくなかったのだ。
「あっ、シオン!!」
 驚きと戸惑いの混じり合った乾いた声が響き渡る。しかしそれに応える余裕など微塵も残されてはいなかった。俺はその視線から逃れようと、ただひたすら走り続けた。


 乱暴にドアを開けて部屋に入ると、荒い息を抑えながらドアにもたれかかった。手を後ろに回してノブをギュッと握りしめる。
 酷く混乱していた。いや、混乱と言うよりむしろ混沌と言った方が正しいかもしれない。頭の中を飛び交っていたのは必死になって忘れようとしてきたおびただしいアドビスの記憶。それは確実に頭の中へと降り積もっていって、ついには俺自身を飲み込んでしまうのではないかとさえ思えた。
 怖かったんだ。自分を手放してしまうその瞬間が。魔力を暴走させてしまったあの時のように、そんな姿をイリアに見せたくなどなかった。
「あ……うぐ…………」
 突然酷い圧迫感が体中を襲った。喉が締め付けられるような感覚に呼吸すらまともに出来なくなってしまう。
 視界がどんどん狭まっていく中、反射的に仰け反った背中が勢いよくドアにぶつかった。肺に溜まっていた大量の空気が一気に喉元まで込み上げてくる。それを何とか吐き出そうとするのだけど何故か出来なくて。焦れば焦るほどどうしていいか解らなくなって。目の前の景色がぐらりと揺れたかと思うと、俺の身体は為す術もなく床に叩きつけられていた。
 床に爪を立てながら何とか息を落ち着けようとする。しかし息を吐き出そうとすればするほど、大量の空気は容赦なく喉の奥へと入り込んでくる。瞳の奥には白い光の粒がちらついて、それは目瞬きをしても決して消える事はなかった。
 震えが止まらなかった。どうしていいか解らなかった。何も考えられなかった。酷い混乱は恐怖を感じる隙すら許さなかった筈だ。それなのに、突然飛び込んできたその声は一瞬のうちに俺を我に返らせていた。
「シオン! ねえ、どうしたの!? シオン!!」
 大丈夫だ、その一言を口に出来たならどれだけ良かっただろう。しかし俺に出来た事といえば、ただ床に手と膝をつけてのたうち回るくらいだった。
「ごめん、入るからね!!」
 次に聞こえてきたのは勢いよくドアを開ける音。それを呆然と聞きながら、ただ「しまった」という言葉だけが頭の中でぐるぐると回っていた。
「な……シオン!!! シオンッ!!!!!」
 視界の中にいびつに歪んだイリアの顔が現れては消えていく。その度に首の辺りがこすれて鋭く痛んだ。
「私誰か呼んでくるから! すぐに戻ってくるからね!!」
 背を向けた彼女の服を反射的に掴んでいた。びっくりしたような顔を向けた彼女を辛うじて視界の中におさめながらブルブルと首を振る。その瞬間、ここにいた頃に何度もそうしてきた筈の「ある事」が頭を過ぎった。
「大丈夫って……そんなわけないでしょ!?」
 握りしめた彼女の服を離さぬまま、もう片方の手で背中のマントをギュッと掴んだ。それを口元へと持ってきて喉の奥まで押し込んでいく。さっきよりも息が苦しくなって、何かに縋り付きたい一心で彼女の腕をギュッと握りしめた。
 イリアは腕と俺を交互に見返してから、意を決したように俺の手を握りしめてくれた。


「ここにいる頃にはよくなってたんだ。ストレスが溜まってたり、精神的に追いつめられてた時にな」
「どうして言ってくれなかったの?」
「アドビスを出た後になった事はなかったし、敢えて言う必要は無いと思ったんだ」
「違うよ。辛いの、何で言ってくれなかったの?」
「わざと言わなかったんじゃない。自分の中で色々な事が一気に沸き起こって……俺自身混乱してたんだと思う。自分でも気付かないうちにさ。大丈夫だと思ってたのに」
「……ごめん」
「どうして謝る?」
「追いつめるつもりじゃなかったの。ただ……」
「解ってるよ。俺を誰だと思ってる?」
「ふふっ、そうだね」
「ああ、でもありがとう」
「うん。私には大したこと出来ないかもしれないけど、いつも側にいるからね。辛い時もそうでない時も。だから甘えてくれていいんだからね?」
「頼りにしてる」
「まかしといて!」
「なあ」
「なに?」
「今夜……ずっと側にいてくれるか?」
「もちろん! シオンが嫌って言ってもそうするつもりだったから」
「ははっ、お前らしいな」


 仄暗い部屋の中で互いの吐息を間近に感じていた。不自然なまでに規則正しいそれを聞きながら、こいつもまだ眠れないのか、と心の中でぼそりと呟く。
 机の上に置いたコップの水に反射した月明かりが天井に映し出されていた。蒼白い光の波が揺らいで、それはまるで宵闇に浮かぶ海のようにすら思えた。イリアもこれを見ているだろうか? ふとそのような思いが頭を過ぎったけれど、彼女の顔をこんなにも間近に見るのは何となく気恥ずかしかった。その代わりにゆっくりと手を横に伸ばして、俺のより一回り小さい彼女の掌にそっと重ねた。
「綺麗だね」
 彼女の透き通った声がすぅっと闇に吸い込まれていく。
 こんな時でさえ気の利いた科白一つ言えない自分が怨めしかった。カイならどんな風に言うだろう? いくつか思いついたものはあったけれど、とても俺に言えそうなものなどなくて、喉の奥に引っかかった歯の浮くような科白をごくりと飲み込んだ。
「ああ、そうだな」
 結局これが俺の言葉なのだと思う。こいつの前では気取る事なんてない、ただありのままの自分でいればいいのだと。それは決していつまでも変わらない自分でいればいいという意味ではないけれど。
「なあ」
「ん?」
「お前が側にいてくれて良かった」
「私も、シオンが側にいてくれて良かった」
 そう言って、彼女は重ねた手をギュッと握りしめてくれた。


 久しぶりにゆっくり眠る事が出来た、というのはかなり誤魔化した言い方になるだろう。実際の所は「寝過ごしてしまった」と言うのが正しい。開け放たれた窓からはさんさんと陽の光が差し込んできて、太陽はずいぶんと高く昇っているようだった。あまりの目映さに腕で目を覆い隠した瞬間、誰かがノックする音が聞こえてきた。
「ああ」と応えながらゆっくりと起きあがる。床に脱ぎ散らかしたローブを羽織って、それからドアの方へと足早に歩いていった。
「おはよう御座います。あ……まだお休み中でしたか?」
 目の前に立っているのはこの城の兵士とおぼしき男だった。俺の顔と服を交互に見つめて、申し訳なさそうにそう付け加えた。
「いや、いいんだ。それで、一体どうしたんだ?」
「女王から伝言を承って参りました」
「ああ」
「はっきりとした時間は申し上げられませんが、昼過ぎの所でお会いになられるそうです。多忙故にご理解頂きたいと」
「それは構わない」
「それから、本日城下にて祭りが催されております。お時間までそちらに行かれても宜しいかと。カイ様には既にお伝えしましたが、イリア様のお姿が見えないようでして……」
「あ……ああ、アイツには俺から伝えておくよ」
「そうですか。それでは宜しくお願いします」
「わざわざすまないな」
「いえ、それでは失礼致します」
 ドアを閉めながら心臓がドキドキしている事に気付いた。全く、変な事をしていたわけでもないのに俺って奴は……等と考えながらイリアの方へと顔を向ける。
 幸せそうな顔をしたアイツは未だ布団にくるまったまま可愛い吐息を漏らしている。やれやれ、今日はどうやって起こしてやるかな。
「イリア、起きろよ。もう朝だぞ?」
 当然身体を揺さぶったくらいで起きる筈がない。こいつの寝坊は筋金入りなのだ。仕方なしにふっくらとした頬をつまむとびよーんと引っ張ってみた。
「おーー伸びるのびる」
 言ってる自分が馬鹿に思えるが、これがやってみてなかなか面白い。そんなこんなをしばらく続けていると不意に彼女の目が開いた。虚ろな瞳で俺を見つめながら、小さな唇からは間の抜けた声が聞こえてくる。そして二三度目をパチクリさせてから妙に低い声で「いーーたーーいーー」と唸ってみせた。
「ようやく起きたか?」
「起きたか? じゃないよ~女の子のほっぺつねったりしていけないんだ~」
「誰かさんがきちんと起きないからだろ?」
「うぅ……今何時くらい?」
「さあな、でも結構遅くまで寝てたみたいだぜ」
「何だよ~シオンだって寝てたんじゃんか」
「でもお前より早く起きただろ?」
「さっきの人に起こされたくせに」
「何だよ、お前起きてたのか?」
「ううん、一度起きたけどまた寝ちゃったの」
「全く……お前って奴は」
「それで、何だって?」
「ああ、昼過ぎにミトと会えるそうだ。あと城下町で祭りをしてるらしいぞ」
「わーーお祭り? 行きたいな。ね、行こうよいこうよ!!」
「そうだな。じゃあさっさと準備してこいよ」
「うん、解った!」
 そうして鉄砲玉のように勢いよく部屋から飛び出していく彼女。やはりこういう時の行動力は並大抵ではないようだった。


 城下は昨日来た時からは想像出来ないほどの人でごった返していた。
 マーチングバンドの陽気な音楽にあわせたパレード、数え切れないほどの出店、街中に響き渡る歓声ーー行き交う誰もが楽しそうな顔をしていて、この国にもまだこんな活気が残っていたのかと、心の中でほっと息をついている自分がいた。
「うわーー凄い人だね!」
「迷子になるなよ?」
「ふふ~ん。シオンがちゃんと付いてきてくれたら迷子になんてならないよーだ」
「ああ、そう言えばそうか」
「へへ、納得した?」
「ん……まあ取りあえず納得しといてやるよ」

 それから二時間くらい経っただろうか。
 俺達は出店で買い物したり、ゲームをしたり、本当にこれでもかっていうくらい遊びまくった。子供みたいにはしゃいで、こんなに楽しかったのは久しぶりだったと思う。イリアも本当に楽しそうで、そんな彼女の顔を見る度に嬉しくて仕方がなかった。
 しかしさすがの彼女も疲れたのか、満足だ、という風な顔をしながら今は道ばたに置かれた椅子にぐったりと座りこんでいる。一方の俺は壁に背をつけて身体を休めながら、行き交う人々をじっと見つめていた。彼らは人種から何から本当に様々であったけれど、その顔には一様に楽しげな笑みが浮かんでいた。そんな幸せそうな光景が移り変わっていく中、俺の瞳はある少年を捕らえた瞬間にぴたっと動きを止めた。茶色いフードをかぶった彼は微動だにせず一人立ち竦んだまま、その明らかに周りとは違う異質な雰囲気に強く惹かれずにはいられなかった。
 俯いているせいで顔を見る事は出来ない。しかし俺は彼が「彼」である事を知っている。理由など無い。ただそう確信しているのだ。そして彼がゆっくりと顔を上げた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような激しい衝撃が体中を走った。

そこにいたのは紛れもなく幼い頃の俺自身だった。

「どうして」と呟きながら躊躇いがちに右手を差し出す。
 彼は俺を見つめながら幾度か唇を動かして、その幼い顔に冷たい微笑みをフッと浮かべた。
「王子」
 いきなり飛び込んできた声にハッと我に返った。
「それにイリアちゃんも。ここにいたんですね」
 一瞬の躊躇の後、ぎこちなく首を動かしながら声のした方に振り返った。不思議そうな顔をしたカイは俺を見つめたまま微かに首をかしげている。
「ああ、どうしたんだ?」
「すぐに見つかって良かった。女王がお会いになるそうです」
「そう……か」
 そう曖昧な返事をしてからゆっくりと視線を戻した。しかしそこに彼の姿を見つける事は出来なかった。



「単刀直入で申し訳ないのですが早速本題に入らせて頂きます」
 俺達の顔を見るや否やそう切り出してきたミト。その顔には色濃い疲労の色が浮かび上がっている。心なしか声にも張りがないように聞こえた。
「まずは情報の整理と共有をしておいた方が宜しいでしょう。昨日簡単にはうかがいましたが」
「ああ、そうだな。それじゃあ俺からもう少し詳しく話しておこう」
「お願いします」
「リルハルトの街がドラゴンに襲撃されたのは知っているな?」
「ええ」
「あの街が偶然選ばれたわけじゃない。ドラゴンはある意志をもってリルハルトを襲った。正確に言えばその意志はイールズ・オーヴァのそれという事になるのかもしれない。そしてその目的はジェンドをあぶり出して手中におさめようという事。それが今から9日前の事だ。しかし俺がドラゴンを倒した事によって、取りあえず奴の企みは頓挫した事となる。そしてカイからアドビスで起こった例の事件について聞いて、それと何らかの関わりがあるのではないかと思った。ダークエルフとアドビス……この二つはある一本の線上にあると考えたわけだ。それでこの国を訪れる事にした。しかし旅の途中でイールズ・オーヴァが現れて…… 彼女はさらわれてしまった。それが今までの経緯だ。お前の方はどうだ? ここ最近アドビスで何か変わった事はなかったか?」
「そうですね……直接の繋がりがあるかは解りませんが、魔導研究所の方からいくつか報告は受けています」
「というと?」
「詳しい話は後ほど研究所の方で聞いて頂くとして、私の方からは簡潔にお話ししたいと思います。アドビスに限定された事ではないのですが、オッツ・キイム全域で凶暴化した魔物が町や村に対する攻撃を激化させているとの事です。しかも魔物の存在が殆ど確認されていない地域でも」
「魔物の凶暴化か。確かに何かありそうだな」
「それから、ここ数日の間に著名な魔導士達が次々と失踪しています。いずれの場合も状況証拠から自宅にいる時に誘拐された線が濃厚ですが、特に争った形跡も残っておらず、目撃者もいません。彼らほどの力を持った者が抗うことなくやられてしまうというのは不自然極まりないというのがこちらの見解です」
「かと言って自らの意志でそうしたと考えるのはもっと不自然だと」
「ええ。取りあえず私から提供できる情報はこの位ですね。ジェンドさんの件はアドビス、ひいてはオッツ・キイム全体に関わる大きな問題であると認識しています。ですので私としても出来うる限りの協力は惜しまないつもりです。アドビスの元首として、そして一個人としても」
 外から言い争うような声が聞こえてきた直後に勢いよくドアが開け放たれた。続いて何人もの兵士を引き連れた男がずかずかと部屋の中へと入ってくる。ミトはその男をじっと睨みつけながら、その顔には明らかな不快の念が色濃く映し出されていた。
「どういうつもりですか、ルーファス? 私は今大切なお客様とお話しているのです。即刻立ち去りなさい!」
「私がどういうつもりかなどご存じでしょう? 忠告した筈です。それをお聴きにならなかった貴女が悪い」
「その話ならば後ほどうかがいましょう。ですから今はーー」
「まだ状況を理解されてないようですな。全ては動きだした……今更足掻いたところで手遅れなのです。我々は沈みゆくアドビスで貴女と共に心中するつもりはない。我々星室庁に全権を委譲してもらいましょうか。女王、貴女は無力だ。貴女には何も出来やしない」
 鋭い抜剣の音が響き渡り、ルーファスの兵士達は既に俺達を取り囲むように展開していた。広い謁見の間の奥にはミトが、彼女の横には二人の、そして俺達の前後脇にはそれぞれ左右二人ずつのが護衛兵がいる。入り口にいる二人の護衛兵は既に取り囲まれており、圧倒的にこちらに不利な状況である事は明白だった。
「馬鹿な事はやめなさい! 今ならば何もなかった事として済ませてあげましょう。しかしこれ以上たてつくというならばこちらとしても看過するわけにはいきません」
「……だから貴女は甘いと言っているのですよ」
 ルーファスの剣は緩やかな弧を描き、風を切る鋭い音と共に肉と骨を断ちきる鈍い音が響き渡った。鮮やかな血飛沫が舞い上がって、彼の隣にいた護衛兵の一人がその場に崩れ落ちる。
「ルーファス!!」
 ミトの悲痛な叫び声が響いた頃には全てが終わっていた。立ち上がった彼女はわなわなと震えながら血にまみれた兵士を凝視し、その顔からは明らかに血の気が失せているように見えた。
「あなたという人は……自分で何をしたか解っているのですか!?」
「ふん、大げさに騒ぎ立てるのは止しなさい。一人の犠牲で全てが変えられるならばその対価としては安かろうに。後は貴女の出方次第ですよ、女王様?」
「……言いたい事はそれだけか?」
「何?」
「言いたい事はそれだけかと訊いたんだ、ルーファス」
 ゆっくりと顔を上げながら奴の顔を思い切り睨み付けてやる。ようやく俺の存在に気付いたのか、奴は口元を微かに歪めながらフッと嘲るような笑い声を漏らした。
「おやおや、誰かと思えば我らが王子様ではありませんか。お亡くなりになった筈の貴方がこの国で何を?」
「お前は昔からそうだったな。愛想笑いを振りまきながら腹に一物あったってわけだ」
「何を今更……男たるもの野心の一つや二つ抱いて当然で御座いましょう?」
「慢心は身を滅ぼすと言うぞ。一体お前に何が出来る? 何を変えられると言うんだ?」
「この国の全てを。それを邪魔だてする者は例え王とて許しはしませぬ」
「一つ忠告してやろう。妹に指一本でも触れてみろ、ただでは済まさんぞ!」
「どうすると言うのです? 貴方こそ周りをよくご覧になった方がーー」
 その瞬間指先に集中させた気を一気に解き放つ。一条の矢と化した光の刃は甲高い音をたてながら空を切り、奴の頬を鋭く抉っていった。一瞬の間をおいて一筋の血が頬を伝って零れ落ちてゆく。
「っ……!?」
「次は外さんぞ。お前達がどれだけ数で勝ろうともウィザードを一突きする術をも知りはしまい?」
 その言葉に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるルーファス。奴は一度だけ震えた手で握りしめた剣を俺達に向けたが、舌打ちをするとすぐさまそれを収めてしまった。
 奴らが一気に攻めてきたなら、きっと術を唱える間もなくやられていただろう。しかし今回ばかりはウィザードに対する偏見に救われたようだった。
「一旦引くぞ!」
 その言葉を合図に退却を始める兵士達。逃げゆく彼らと俺達を交互に見つめてから、奴は再び舌打ちをして謁見の間から立ち去っていった。
 ミトの護衛兵達は依然陣形を崩すことなく、ただ事態の行く末を見守っているようだった。この状態において後を追った所で勝機がないのは明らかだったのだ。しかし安心したのも束の間だった。俺達の側にいた護衛兵が奇声を上げながら剣を抜いたかと思うと、彼はミトめがけて勢いよく走り出したのだ。
「ミト!!!」
「女王!!!」
 俺とカイの叫び声と共に剣と剣がぶつかりあう鋭い音が鳴り響く。ミトの側にいた護衛兵の振り上げた刃は叛乱者のそれを弾き飛ばして、返す刀で奴の首筋を切りつけていた。
 獣の咆吼のような断末魔の叫び声が響いて、男が為す術もなく崩れ落ちた鈍い音の後に異様な静けさが訪れた。
 ミトは力なく椅子にへたりこんで、紫色に染まった唇を震わせながらカチカチと歯を鳴らしていた。目玉をギョロギョロさせながら、その視点は決して定まろうとはしない。
「大丈夫か、ミト!?」
 その問いかけに声もなくガクガクと頷くミト。
 しかし静寂が長く続く事はなかった。追い打ちをかけるように城のどこからか爆音が鳴り響いて、それに無数の悲鳴が後に続いた。
「な……何が起こったというのです!? あ……あの音は…………一体何が……」
 痛々しいほどに震えた声を漏らすミトを尻目にカイの顔をじっと見つめる。彼も考えていた事は俺と同じだったらしい。互いに頷きあうと、ミトを助けた兵士の方へと視線を向けた。
「俺達が様子を見てくる。後の事は頼んでいいか?」
「ええ、お任せ下さい」
「私も行くからね!!」
 俺達の間に割って入ったイリアは懇願するような瞳で俺を見つめていた。しかしそれを受け入れるわけにはいかなかった。どんな危険が待っているかも解らない所にコイツを連れて行くわけにはいかなかったのだ。だがそれを言った所で素直に頷くような奴ではない事は俺自身がよく知っていた。
「ダメだ。お前はここに残れ」
「何でだよ!!」
「妹の事を頼む。お前を信用しているから言ってるんだ」
 ギリッと歯を噛みしめながら視線を床に落とすイリア。その言葉には抗えないと悟ったのだろう。それを見越して俺がそう言ったのだという事も。
 彼女の肩をトントンと叩いてからカイの方へと顔を向ける。そして再び頷きあうと、俺達は急いで爆音の聞こえてきた方へと走っていった。



 逃げ惑う人々の間をかいくぐりながら、その先に飛び込んできた光景に思わず絶句してしまった。
 石煉瓦の側壁は叩き割ったように崩れ去って、そこに立っていたのは薄ら笑いを浮かべたルーファスと、彼の背の三倍はあろう巨大な魔物だった。熊のような身体、それに見合わない長く太い腕、鋭い爪と牙ーーそれは決してアドビスにいる筈のない魔物であり、ましてその凶暴性をもって人間の言う事をきくなど信じられようはずがなかった。
「お前達が悪いのだぞ。私はこれを使うつもりなどなかったのだ。しかし……まあいい、ヴァルダン、やってしまえ!!」
 ルーファスの叫び声に応じて咆吼をあげる魔物<ヴァルダン>。しかしそれは決して服従の意をあらわしたものではなかった。長い腕を勢いよく振り下ろしてルーファスをなぎ払ったかと思うと、続いて奴の首と足を掴んで頭の高さにまで持ち上げていった。
「な……何をする!? 止せっ!! 私の言う事がきけないのか!?」
 再び耳をつんざくような咆吼が響き渡る。それが応えだと言わんばかりに、ヴァルダンはいとも容易くルーファスの身体を折り曲げてしまった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
 断末魔の叫び声にトマトを潰したようなグシャッという音が重なる。そしてもはや人間のそれとは認められないほど形を変えた奴の身体は無惨にも硬い床に叩きつけられていた。
 ピクリとも動かない獲物を一瞥したヴァルダンは、今度は周りの人間へと興味を向けたようだった。腕をブラブラさせながら逃げゆく人々の後を追ってドスンドスンと大股で歩いていく。
「どうしますか!?」
「お前の剣じゃリーチが短すぎるよな……よしんば懐に入り込む事が出来たとして、あの腕にやられるのがいいトコか」
「良くて差し違えでしょうね。それよりも王子の魔法で一気に片付けた方がーー」
「ここで使ったら他の者まで巻き込んでしまう」
「あ……」
「そうだ、中庭だ! あそこなら大技が使える。誘き寄せられるか?」
「ええ、何とかやってみます」
「よし、それじゃあ俺は先に中庭に行って魔法を展開させておく。後は頼んだぞ?」
「解りました!」

 中庭までやって来た俺はヘキサグラムの頂点に次々と印を結んでいった。
 その間にもヴァルダンの大きな足音が聞こえてきて、それは確実にこちらへと近づいているようだった。
 一つ、また一つ、印が完成していくごとにその中心から赤く染まった光の柱が天に向かって伸びていく。そして六つの頂点の印が完成した直後、物凄い雄叫びと共にカイに誘われてやって来たヴァルダンが中庭へと入ってきた。
「カイ、後は俺に任せて魔法陣の外に出てろ!!」
 そう叫んで魔法陣の中心に立つ。そして両手を前に突き出すと術の詠唱を始めた。体中にピリピリと電気が流れるような感覚が伝って、髪の毛やマントがぶわっと天に向かって浮かんでいくのが解った。
 俺の姿を見つけたらしいヴァルダンはもの凄いスピードでこちらへと近づいてくる。しかし大技だけあってなかなか術の詠唱が終わらない。
 ドスンドスンと地面が揺れる度に脂汗がたれて、何とも言えない焦りと恐怖が体を蝕んでいった。
「王子! 危ない!」
 カイの叫び声に顔を上げると、目の前には腕を大きく振りかぶったヴァルダンが俺を見下ろしていた。体中がガクガク震えて、それは術を唱える唇も例外ではなかった。歪な言葉が次々と魔法陣の中へと飲み込まれていき、ついに奴の腕が振り下ろされようとした瞬間、俺は最後の一言をあらん限りの大声で叫んでやった。
 術の発動と同時に中心から周縁へと向かって紅に染まっていく魔法陣。鮮やかな紅の光はあっという間にその頂点にまで達し、そこにそびえたった六つの光の塔はバリンと音を立てながら一気に砕け散った。まるで硝子の破片のような光の欠片は残像を描きながら一気に魔法陣の中心へと呑み込まれていく。その直後に張り裂けんばかりの轟音が鳴り響いて、魔法陣の中心から生まれた赤黒い雷は天に向かって勢いよく放たれていった。
「うわっ!?」
「グギャァァァァァァァ!!!!!!!」
 体中を駆けめぐっていく衝撃に思わず目を閉じてしまう。大地震でも起こったかのようにぐらりと揺れる地面。バランスを崩した俺の身体は為す術もなく地面に叩きつけられる。今にも飛んでしまいそうな意識を何とか捕らえようと、俺は手元の草をギュッと握りしめて離さなかった。
 どれくらいの時が経っただろう。それは目瞬きをするくらいに短かったかも知れないし、とてつもなく長い間だったかも知れない。仄かに甘い混乱に包まれていた俺にとっての唯一の現実はこの静けさであった。全てが終わったであろうその先に訪れる静寂。次に感じたのは生暖かい液体の上に浮かんでいるような妙な感覚。俺はどうしてしまったんだろう? ぼんやりとした意識の中でそのような事を考えていた。感覚の曖昧な右手を何度か閉じたり開いたりしてみる。どうやら動かす事は出来るらしい。それだけ確認してからゆっくりと手を上げた。いや、感覚的には上げると言うよりも持ち運ぶと言った方が正しいかも知れない。
「血か……」
 掌にべっとりとくっついていたそれを見て笑いが込み上げてきた。何がおかしいのか自分でも解らない。ただ笑わずにはいられなかったのだ。体中がまるで操り人形のようにカタカタと震えていた。
「王子! 大丈夫ですか!?」
 聞き覚えのある声に少しだけホッとしたのが正直な所だった。しかし腰が抜けたか、いくら試してみてもなかなか起きあがる事が出来ない。仕方なしにじわじわと痛む身体を少しずつ横に傾けてみる。そこで俺の目に飛び込んできたのは赤黒い血を吐き続けるヴァルダンの死骸だった。そしてそれは俺がまだ生きているのだと初めて確信した瞬間だった。
「王子! 王子! 大丈夫ですか!!」
 突然目の前に現れたカイ。俺は強ばった笑みを浮かべながらゆっくりと頷いてみせる。
「何とか……な」
 同じように強ばっていたカイの顔がゆっくりと緩んでいった。微笑んでいるとまではいかないものの、ホッと安堵したような表情がその顔には浮かんでいた。
 身体の隅々にまで水が染み渡っていくように、喪われた感覚は少しずつあるべき場所へと還っていく。先ほどとは打って変わってどっしりとした身体の重み。たれ込めていたもやが引いて輪郭を取り戻しつつある思考。そんな中で唯一頭の中にあったのはアイツの事だけだった。唯一俺を理解し、そして支えてくれるイリアの事だけ。また心配かけたな、瞳の奥底に浮かび上がった彼女に向かってそう呟いた。



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